2021 0625 0115

 

  • 近頃涙を流さなくなった。正確には泣きたい気持ちに駆られても、以前のように感情に任せて豪快に泣くことができなくなった。今朝は夢見が悪く、良く晴れた日曜日の朝だというのに目覚めの気分は最悪だった。カーテンの隙間から漏れ出る光が妙に眩しく感じられ、何の前触れもなしに土砂降りの雨が降ってくれたらどんなに救われるだろうと思った

 

  • ...と、メモ帳に書いたのが4月の初め頃。豪快に泣くこと………確かに少なくなったかもしれん 名古屋に居た頃はしょっちゅう「もー人生がわかんないよ〜」と過呼吸になりながら周りの大人に泣きついていたのに 今は周りを見れば年下ばかりで、もうそういう時期はとうの昔に過ぎ去ったのね と少し寂しい気持ちで遠くを見ていたのでした 友達と楽しく遊ぶことよりも、挫折を味わって悔しくて悔しくて泣くことこそが青春だと思っているので 「ああ もう青春は終わってしまったんだな」と勝手に落ち込んでいた4月でした、が、5月の初め頃、久しぶりに「悔しくて悔しくて感情に任せて豪快に泣けた」のでとても安心した 私もまだまだ青春できるのねと

 

  • 今も昔もひとしきり泣いた後のあの感じが大好きだなと再確認  普段は無気力な自分が「…っしゃ〜〜〜やったろ!!!」と、無駄に前向きになれるのは 取り乱すほど泣きじゃくった後の数時間ぐらいだから

 

  • 【J'en ai vu bien d'autres.】とは 直訳で「私はもっと多くのものを見てきた」であり、それを意訳すると「もっといろんな目に遭ってきたのだから、そんなことでは動じない」といった意味合いになりますその理由はここに書くまでもありませんね 2015年の冬、テレビの音だけが虚しく響くキンキンに冷えきった部屋でフランス語の勉強をしていたとき、泣きながらノートの片隅にこの言葉を書いたのを今でも鮮明に覚えています (強がりやがって…)この言葉はいつも頭の片隅にあった

 

  • 何度も人生辞めたくなったけど 人生は死ぬまでの暇つぶしで 美味しいものを食べるために生きてると思えば途端に楽しくなってくる

 

  • だけどたまには豪快に泣いてどん底まで堕ちて「っしゃやったろ!!!」と前を向く、というような青春が恋しくなる 私は恐らくこの激しい感情の波の中でしか生きられないとどこかで分かっているし、一生そういう不安定な生き方が出来たらいいなと願ってさえいる だから「あれ、なんで生きてるんや?…ああそっか、美味しいものを食べるために生きてるんやったな」と思い込むことでどん底から解放されることもある一方、実際に「美味しいものを食べるために生きてる」状態に落ち着いてしまったら 今度こそ本当に人生辞めてる これはもう変態だ!

 

  • そうだ 昨日のモーウィの件、今朝電話したら返金してもらえることになった。数分後に折り返し電話が来て「もしかして白いモーウィをご購入されましたか?」と聞かれたから、はいそうです〜と答えたら、爆笑しながら「ダイコンに似てるから間違えたんでしょうね〜!」と。「申し訳ございませんでした」と陳謝されるよりもずっと良かった。

 

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 いつもは普通の、黄土色のモーウィを買うのだけど、今日は白いモーウィがあったからウキウキしながら購入した。「白モーウィはアク抜き不要!クセのないサッパリとした味が特徴!」と書かれた店内POPを見て初めてモーウィを調理する際に下処理が要ることを知った。まぁ今まで美味しく食べていたし大丈夫でしょう。最近はナスもゴーヤーもアク抜きしないでジャンジャン炒めちゃう・・・

 

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 帰ってレシートを確認すると、モーウィの記載がなく、代わりに大根の文字が・・・

 

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 仕方ないね これは大根だ

 

 大根といえば、沖縄の津堅島は、"キャロットアイランド"と呼ばれるほどニンジンの生産地として名高い島。…ということはきっとニンジンは津堅島の伝統的な農作物なんだろう!と思いきや、意外にもその歴史は浅くて、もともとは「チキンデークニ(津堅ダイコン)」を主に生産していたんだとか。

 

 その関連でいろいろと調べていたら、沖縄の野菜である「島ニンジン」のことを、沖縄の方言では「チデークニ」と呼ぶと知った。意味は 黄色いダイコン 。確かに黄色いダイコンだ・・・

 

 大学の授業中(この御時世なのでオンラインです)にこんなことをチャット欄に書き込んでみたら、中国からの留学生が「中国語でも、ダイコンは萝卜、ニンジンは红萝卜と呼びます」と教えてくれた。つまりニンジンは赤いダイコン。

 

 アジアのとある地域を研究されている教授にも聞いてみたところ、その地域の言語においても、ニンジンのことを「赤いダイコン」と表現するんだとか。

 

 ニンジンは赤いダイコン・・・同じ根菜だものね

 

 それでいうと、モーウィはウリ科なのでいくら見た目が似ていようがダイコンではない。「ダイコンもどき」とかならイケたかもしれん(それで思い出した!宮古島には「ニンジンもどき」という野菜があるらしい。見た目は普通の葉野菜。別名「アフリカほうれん草」「ブラジルほうれん草」とも言うらしい。何がなんだか…)。とりあえず差額の160円を受け取りに行くまで白いモーウィはお預けだぁ。この話はこれでおしまい。

 

2021 0517 1628

 

店員さん「お待たせしました、こちら◯◯ケーキになります」

お客A「あらかわいいわねえ、これ豚?(チョコペンで描かれた絵を指差しながら)」

店員さん「あ、こちら熊になります……すみません、ごゆっくりどうぞ…(足早に去る)」

お客B「フフフ、なんて酷いことを…フフフ」

お客A「だってこれは豚だよねえ」

 

***

 

気になってチラ見したら確かにあれは豚だった。マスクしてて良かったと初めて思った(ニヤニヤが止まんなかった)。

 

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  • 「一瞬、私は幼い頃これと同じ光景を見たことがあるような気持になり、なんともいえぬ懐かしさに恍惚となった」:チェーホフ『中二階のある家』

 

 夕暮れ時の海辺を歩いていると不思議と↑こんな感覚に包まれる 海無し県で育ったから幼少期に海に親しんだ記憶など一ミリもないのに、夕焼け小焼けのチャイムを聞いて「もう今日が終わっちゃった〜・・・」といちいちしんみりしていた小学生の頃の情景が目の前に広がる

 

 「あーちゃん今日は何が食べたい?」働き詰めだった母に代わって祖母(ばぁばと呼んでいた)が毎日夕食を作ってくれていた ひとりっ子な上にひとり孫でもあるので祖母は私を毎日毎日甘やかす 私には自分の意見がなかった 外でも家でも常に気を張っていて、誰かに頼ること、甘えることが心底苦手だった だからいつも「なんでもいい」と言って困らせた すると祖母は「パントリーにお菓子あるから、なんでも食べてちょうだい」と言って台所に立つ 私はいくつかお菓子を取ってきて、忍たま乱太郎や天才てれびくんを観ながら食べる

 

 そのまま祖母の家でお風呂に入り、クーラーの効いた祖父(じぃじと呼んでいた)の部屋でテレビを観る 一緒にパソコンで麻雀やカードゲームをしたり、当時勤めていた大学の資料作りを横で眺めたりしていた

 

 夜になると母が迎えに来る 玄関まで見送りに来た祖母に「…おやすみ」と表情ひとつ変えずに可愛げのない声で挨拶をして、"ああ今日も何ひとつ孫らしいことが出来なかった"と心の中でため息をつきながら車に乗り込む 車酔いの激しかった私は、できるだけ酔いを意識しないために音楽の世界に没入する必要があった 35度を超える暑い夜も雪の降る夜も、車内にはほとんど決まって中島美嘉の『Be in Silence』が流れていた

 

 

 どうしてそうなったのか、はっきりと覚えていないけど、車ではなく母のママチャリで一緒に帰ったことがある 荷台がなくて2ケツ出来なかったから、ちょっとヤンチャな小中学生のように後輪のハブ部分に立って母の肩を持って颯爽と あそこらへんに住んでいた子なら分かると思うけど、当時はまだ至る所に田んぼがあって、夏になるとカエルの大合唱が夜の田舎町に響き渡っていた

 

 しかし、その後急速に宅地開発が進み、あっという間に田んぼが埋め立てられていった それに伴いカエルの大合唱も聞こえなくなった ポツリポツリと「ゲコ、ゲコ」という鳴き声が聞こえるのみ。高一の頃、現代文の期末テストで「あなたにとっての"無常"とはなにか」という自由解答式のボーナス問題を目にしたとき、真っ先に思いついたのはこのなんとも言えない寂しさだった 赤点は免れた

 

 3歳から16歳まで暮らしたアパートにはいろんなひとが住んでいた 入居者の半分以上が外国人で、夏になるとしばしば駐車場でブラジル人たちによるバーベキューパーティーが開かれていた 母が言うには、私たちが入居した頃はまだまだ母子家庭に対する偏見が強く、例え収入があったとしても快く受け入れてくれる不動産は少なかったそうだ ここの大家さんはとても穏やかな人だった  一切介入はしてこないが、しかし常に暖かく見守られている感じが心地良かった

 

 ある夜、202号室の車のライトが点けっ放しだったから知らせに行くと、ブラジル人の女性が出た。「旦那さん、仕事、いない…どうしよう?」と片言の日本語で助けを求められる。小学生の私にどうしようと言われてもどうしようもない 埒のあかないやり取りを繰り返していたら中からフェレットが出てきた

 

 もちろんここはペット禁止 だけど多分みんな何かしら飼っていた だからうちもいつか飼えるかもと思って野良猫を可愛がっては「うちに来る?」としつこく話しかけてそっぽ向かれてた 

 

 それからはホームセンターに用事がある度に併設のペットショップに寄ってフェレットを眺めていた「202号室の人、フェレット飼ってたよね」とさりげなく母におねだりするも、うちペット禁止だから、と断られる

 

 田舎あるあるなのか、あの地域特有のものなのかはわからないけど、小学生のうちは地域ごとにまとまって分団登校をしなければならなかった 集団行動がなによりも苦手だった私はアパートの階段からひょっこりと顔を出して集合場所をじっと見つめる 皆が出発したのを確認してからひとりでのんびりと登校する 川に架かる、せいぜい2人が並んで通れるくらいの細い橋からアパートが見える

 

 

 さてこんな回顧録を書きながら、これからあの地で生まれ育つ子どもたちはどんな記憶を刻んでいくんやろと想像してみた 私がこんなふらふらしてるうちに地元の同級生たちは既に結婚して子どもを産んでマイホームを購入してそれぞれの人生を進めている 

 

 「掘立て小屋ですか?」と聞きたくなるようなボロボロの駅も、帰省する度に進化していて昔の面影はほとんどない あの廃れた古本屋の跡地にスタバが出来たらしい 別にそれでいいけども

 

 5月15日は沖縄本土復帰の日ということで国際通りが騒がしかった 沖縄で生まれ育つってどんな感じなんやろか 聞いてみたいけど相変わらず友達作りに関心がないのでVRゲームして内に閉じこもってます(給料入ったらLast Labyrinthやりたい)今年こそ友達作るぞ……とボソボソ言っている間にまた大晦日になってるんだぜえ

 

 

 沖縄の梅雨は本州の梅雨のように一日中雨が降り続けるわけではないらしい スコールが止んだらこんなにカラッと晴れることもあるんだって、今日がまさにそれだった