- 「一瞬、私は幼い頃これと同じ光景を見たことがあるような気持になり、なんともいえぬ懐かしさに恍惚となった」:チェーホフ『中二階のある家』
夕暮れ時の海辺を歩いていると不思議とこのような感覚に包まれる。海のない土地で生まれ育ったから幼少期に海に親しんだ経験など微塵もないくせに、夕焼け小焼けのチャイムを聞けば瞬く間に「もう今日が終わっちゃった」と、いちいちしんみりしていた小学生の頃の情景が目の前に広がって、しばらく放心する。
「あーちゃん今日は何が食べたい?」働き詰めだった母に代わって祖母(ばぁばと呼んでいた)が毎日夕飯を作ってくれていた。ひとりっ子な上にひとり孫でもあるので祖母は私を毎日甘やかす。
私には自分の意思がまるでなかった。外でも家でも常に気を張っていて、誰かに頼ること、甘えることが出来ない子どもだった。だからいつも「夕飯 なんでもいーや」と言って祖母を困らせた。祖母は「パントリーにあるお菓子、なんでも食べてちょうだい」と言って台所に立つ。しばらくして私はパントリーからいくつかお菓子を取ってきて、忍たま乱太郎や天才てれびくんを観ながら食べる。
ご飯を食べ終えるとそのまま祖母の家でお風呂に入り、クーラーの効いた祖父(じぃじと呼んでいた)の部屋でテレビを観る。寡黙な人だったけど、あのそっけなさが私の内気な性格には合っていた。よく一緒にパソコンで麻雀やカードゲームをして遊んだ。定年後に天下りで大学教授となった祖父は、講義の資料作りのためにパソコンと睨めっこすることが多かったが、私の方がタイピングが得意だったのでよく手伝っていた。
そうしているうちに、仕事を終えた母が迎えに来る。玄関まで見送りに来た祖母に「…おやすみ」と表情ひとつ変えずに可愛げのない声で挨拶をして、"ああ今日も何ひとつ孫らしいことが出来なかった"と心の中でため息をつきながら車に乗り込む。車酔いの激しかった私は、できるだけ酔いを意識しないよう音楽の世界へと没入する必要があった。三十五度を超える暑い夜も氷点下の雪降る夜も、車内にはほとんど決まって中島美嘉の『Be in Silence』が流れていた。
どうしてそうしたのか、ハッキリとは覚えていないけれど、真夏の頃だったか、一度か二度、母のママチャリに二人で跨り、少しの気まずさを纏いながら家に帰った覚えがある。荷台のない自転車だったから、ちょっとヤンチャな小中学生のように後輪のハブ部分に立ち、母の肩を持って颯爽と。当時はまだ至る所に田んぼが残っていて、夏になるとカエルの大合唱が夜の田舎町に響き渡っていた。
それから十年ほどかけて急速に宅地開発が進んで行き、この町の田んぼはあっという間に埋め立てられ、代わりに無個性な家々が建ち並んだ。年を増すごとにカエルの大合唱も声量を失っていく。「…ゲコ、…ゲコ、」という鳴き声がポツリポツリと聞こえるのみ。高一の頃、現代文の期末テストで「あなたにとって"無常"とはなにか」という自由解答式のボーナス問題を目にしたとき、真っ先に思いついたのがこのなんとも言えない寂しさだった。赤点は免れた。
三歳から十六歳まで暮らしたアパートにはいろんな人が住んでいた。入居者の半分以上が外国人で、夏になるとしばしば駐車場でブラジル人たちによるバーベキューパーティーが開かれていた。母が言うには、私たちが入居した頃はまだまだ母子家庭に対する偏見が強く、例え収入があったとしても快く受け入れてくれる不動産は少なかったそうだ。でもここの大家さんはとても穏やかで、どんな人でも受け入れる器の大きな人だった。こちらの生活には一切介入してこないけど、すれ違う時には柔らかい表情で挨拶をしてくれて、なぜか常に暖かく見守られている感じがしてとても心地良かった。
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ある夜、家に帰ると、向かいの車のライトが点けっ放しだった。そのアパートの駐車場には部屋番号が割り当てられていたから、母と一緒に知らせに行くと、ブラジル人の女性が出た。あまり日本語が通じていないようだったので車を指差して「ライト」と言うと、ようやく状況を理解してくれたが、「旦那さん、仕事、いない…どうしよう?」と助けを求められる。埒のあかないやり取りを繰り返していたら、中からフェレットが出てきた。
このアパートはペットを飼ってはいけない。だけど多分みんな何かしら飼っていたんじゃないかと思う。このフェレットを目撃してしまった私は、「うちもいつか動物飼えるかも!」と淡い期待を抱き始め、道端で野良猫を見つけては「うちに来る?ねぇうちに来る?」としつこく話しかけてそっぽ向かれてた。
それからはホームセンターに用事がある度に併設のペットショップに寄って猫やフェレットを眺めていた。「20X号室の人、フェレット飼ってたよね」とさりげなく母におねだりしてみるも、「まー、うちペット禁止だから」と断られる。
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田舎あるあるなのか、あの地域特有のものなのかは分からないけど、小学生のうちは地域ごとにまとまって分団登校をしなければならなかった。集団行動がなによりも苦手だった私はアパートの階段からひょっこりと顔を出して集合場所をじっと見つめる。そして皆が出発したのを確認してからひとりでのんびりと登校する。川に架かる、せいぜい2人が並んで通れる程度の細い橋を渡る途中、右手を向くとアパートが見える。四階の右から二番目の部屋。
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さてこんな回顧録を書きながら、これからあの地で生まれ育つ子どもたちはどんな記憶を刻んでいくんやろと想像してみた。私がこんなふらふらしてるうちに地元の同級生たちは既に結婚して子どもを産んでマイホームを購入してそれぞれの人生を進めている。
「掘立て小屋ですか?」と聞きたくなるくらいボロボロだった最寄りの無人駅も、帰省する度に進化していて昔の面影はほとんどない。あの廃れた古本屋の跡地にスタバが出来たらしい。活動的だった祖母は「もう身体が言うことを聞かないからね」と言い、紅型染めの講師を辞め、車の免許を返納し、一日中家の中で本を読んでいる。祖父は大学教授を辞めてすぐに認知症を患い、老人ホームに預けられた。私は「おれの妹!」らしい。