vol.0『初・アフリカの記録』

 

 東南アジアの旅から帰国してすぐに、「ゆくゆくは身ひとつでアフリカ大陸を縦断したい」と思った。体力不足のせいで満足のいく旅ではなかったけど、それでも一ヶ月間特に大きなトラブルもなく、ちゃんとところどころで「沈没」もして、ほぼほぼ思い描いていた通りの放浪ができた、という成功体験は幾らか自信に繋がった。その自信が余計にアフリカへの想いを強くさせた。

 しかしまだまだアフリカに対する不安は大きく、まずは体を慣らすために南アフリカのケープタウンにある語学学校に通うことにした。そうと決めたら行動は早く、次の週にはもう語学学校の手配を済ませてあとは出発日までひたすら旅費を稼ぐだけとなった。

 ちょうどその頃、高3のクラス何人かでプチ同窓会BBQをした。次はどこに行くんと聞かれて、南アフリカに行ってくる〜と答えたら、ちゃら森に「アフリカはさすがに危険過ぎる」と真剣な顔で言われ、そのときは「不死身だから!大丈夫!」とか言いつつも、内心「やっぱり無謀なんかな…」と少々怯えていたのを覚えている。

 

 そんなこんなでビビりながらの初・アフリカ。もう9年前ってことに驚いております。あまりにも昔のことすぎて記憶を手繰り寄せながら書くのはちょっとしんどいから当時の日記やTwitter、Facebookの投稿でかろうじて残っていたものを・・・

 

2013年11月〜12月


南アフリカ行ってくるo(^▽^)o

家出る前に財布の中身を100均で買ったポーチに全部移し替えたつもりだったけど、キャッシュカードとクレカ忘れたo(^▽^)o

果たして現金のみで生活できるのでしょうかo(^▽^)o(10万円)


関空からエミレーツに乗ってドバイ経由からのケープタウン着!丸一日かかった〜腰が痛い。南半球だから今の季節は夏で日中は暑い。けどケープタウンは地中海性気候だからカラッとしてて過ごしやすい👍あと街並みがヨーロッパ…とは少し違うけど、とにかく綺麗でアフリカっぽくはない。もともとはオランダの植民地だったから国民の半分くらいが白人で、今回お世話になるホストファミリーもオランダ系の夫婦だった。


家の鍵がめちゃくちゃ開けづらくて家に入るのに毎回5分〜10分くらいかかる。何度もコツを教わるがなかなか慣れる気配がない。今日も学校から帰ってガチャガチャしてたら防犯ブザーが反応してしまって、爆音サイレンが近所中に響き渡ってた………怒られました😇やっぱり富裕層の家は門がイカつい。簡単には入れないようになってる。さすがアフリカだ〜


ホストファザーとちょっと喧嘩っぽくなった。彼はめちゃくちゃ白人至上主義で、人種差別的発言が目立ったからあんまり話したくなくて時間をズラしてご飯を食べるようにしてたら文句を言われたので、「あなたの考え方が好きではない」と伝えたら、ファック、ファック、俺はアジア人が嫌いだ!と叫んでフォークを机に叩きつけていたのでその場で荷物をまとめた。


翌朝、ホストマザーに事情を告げて家を出ようとしたら、ホストマザーの様子がいつもと違っていて、なんだかソワソワしていた。どうしたのか聞いたら、テレビを指差しながら「マンデラが亡くなったのよ!」と言う。なんと私が人種差別関連でホストファザーと仲違いしている間に、南アフリカをアパルトヘイトの闇から救ったネルソン・マンデラが亡くなるという歴史的瞬間が訪れていた…。

なんだかとっても言い出しにくくなってしまったけど、おそるおそる事情を告げると、そんなことよりもマンデラの方がインパクトが大きかったようであっさりと了承を得られた(複雑)。

ゲストハウスまで荷物を背負って40分くらい歩いたけど、やっぱりなんか街の様子がいつもと違った。みんな外に出て、近所の人とマンデラが亡くなったことについてあーだこーだ話し合ってる感じ。

学校に行くと、まずは全生徒がロビーに集まって1分間の黙祷と国歌斉唱。その後「マンデラがいかに黒人に希望を与えてくれたか」について先生が熱弁してた。それを聞いて国籍関係なしにみんな号泣してた(コンゴやガボン、アンゴラなど英語が公用語ではないアフリカ諸国の生徒が多かった)。

 

クラスメイトのアンゴラ人が言う。

 

「マンデラは僕たち黒人のために自分の人生を犠牲にしてまで闘ってくれた。僕たちはマンデラのおかげでこうやって自由に生きられている。すべてマンデラのおかげだ」


ブラジル人、ドイツ人、フランス人と一緒に、レンタカーで郊外にある南アフリカレストランに行ってきた。みんな「ちょっと仕事が落ち着いたから語学留学しに来た〜」「ちょっと時期をズラしたバカンスだよ〜」って言ってて、余裕のある大人っていいなって思った。クドゥ肉とワニ肉めっちゃ美味しかった。


一人でテーブルマウンテン登ってきた。

宿を出る。山に向かって歩く。…歩いても歩いてもたどり着かない、山はすぐ目の前に見えるのに😂

途中、木陰で休んでいたおばあさんに道を聞くと、「あなた一人で登るの?クレイジーね」と言われる。それでもまだ心の中では楽勝だと思っていた。

急な坂を延々と登ること1時間、ようやくテーブルマウンテンのスタート地点に立ちました。この時点でもう死んでた。

そしてケーブルカーを待つ人の行列を横目に登山スタート、の前にソフトクリームで腹ごしらえをした。ここ3日間くらいまともなものを食べてない。同じ宿に泊まっていた日本人のチャリダー(自転車で世界一周してる人)の方に手作り野菜スープを分けてもらったのを最後に、ほとんど栄養のある物を口にしていない(毎晩のように友達とクラブに行ってフィッシュ&チップスを食べながらお酒飲んで、それでお腹いっぱいになるという不健康生活)

更に、半分まで登ったところで水を飲み切ってしまうという失態・・・

塩分補給にと持って来たカリカリ梅(大好物)を食べる。ちなみに私は種の中に入ってる白いアレも食べる派です。でも今回予想以上に固くて、でもお腹が空いていたから食べたくて(ひもじいな)一生懸命戦ったら、ようやく割れた!しかし、中にいるはずのアレがなぜかありません。この労力を返せコノヤロー!と、途端にやる気がなくなりました。

しかし南ア人は優しいです。一人で、しかもキャミソールにビーサンという舐め腐った格好でせっせと登っている不気味なアジア人にも、「頑張って!後少し!」と笑顔で声を掛けてくれるのです。空になったペットボトルを見て水を分けてくれた人もいた(この時、南ア人は「どういたしまして」を"met plesier!"と言うことを知った。アフリカーンス語らしい)。

 

3時間後

 

頂上到着〜!達成感!

もう体力は使い果たしていたのでケーブルカーで下山。5分で到着した。呆気ない・・・

 

p.s.

後日、友達と一緒に違うルートで登ってみたら、途中から風が吹き荒れて飛ばされそうになり「死」が頭をよぎりました。軽装で登山はやめましょう。


満月の日にライオンズヘッドに登るのがケープタウンの定番デートコースらしい。こんな危なっかしいハシゴをいくつも登ってようやくたどり着いた頂上にはたくさんのカップルたちが身を寄せ合い満月が出てくるのを今か今かと待ちかまえていました。


昨日はネルソン・マンデラの追悼コンサート。2010年のW杯が行われたスタジアムで開催されるとのことで、クラスメイトと一緒に行ってきた。

国籍関係なしに、黒人も白人もアジア人も一緒になって南アの国旗を振って、歌って、踊って、悲壮感なんて微塵も感じられず、何万人もの観客が一丸となってウェーブ作ったりして、あー、これがマンデラの望んでいたことなんだろうな〜って思った。

帰り道、ロングストリートに続く大通りを南ア人たちが笑顔で歌いながら(時折ブブゼラの音も聞こえてきた笑)歩いていた。平和そのものだった。

 

p.s.

次の日Twitterを眺めていたら、マンデラ追悼コンサートのデタラメ手話通訳が話題になっていた😂めっちゃ感動したのにやめてくれ


ついに念願のブレイズヘアに!近くの美容院に行って「ブレイズヘアにしたい」と伝えると、「この髪質は初めてだからちょっと準備が必要、あさって来てくれる?」とのことだったので、2日後に予約を取った。

 

6時間かけて完成した頭はこちら…

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道を歩いているとギャングたちに絡まれる絡まれる…「アフリカンチャイニーズ!」ってめっちゃ叫ばれる。

 

美容師さんがバナナをおすそわけしてくれました。二日酔いで何も食べられず座ってるのもやっとだったからバナナの差し入れはとても嬉しかったけど、ケンタッキーを食べながら髪の毛を編むのだけはやめてください。鏡越しでも分かる、手がぎっとぎと!😂😂


帰国します。アフリカとてもよかった。絶対にまた戻ってくる!

 

南アのバンド、Freshly Groundの『Doo Be Doo』を聴くとあの頃の記憶が蘇ってくる。マンデラの追悼コンサートで一番盛り上がった曲だったし、コンサートの翌日からは授業のはじめにみんなでこれを歌った。歌詞とリズムが当時の南アの空気感をそのまま表している。

 

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