2022 0507 2139

 

 男性用ドミトリーの掃除をしていたら、真っ黒に焼けた肌にサングラス、半袖短パンという出立ちのお兄さんが出掛けていった。しかしすぐに戻ってきて、少々はにかみながら「はやる気持ちを抑え切れなくて、日焼け止め塗るの忘れてたよ、こんな真っ黒でも日焼け止めは塗るってねェ〜」と私に言いながら自分のベッドへ。そうして全身に日焼け止めを塗りたくり、また出掛けて行った、…と思いきやまた戻ってきた。「歯磨きもしねーでさーほんとになあ、もう気持ちは海しかねぇんだよな、こんな良い天気だと!ね〜ッ!」そう言い終えると歯ブラシを豪快に口の中へ突っ込んで洗面所へ。歯磨きを終えると、「今日も素敵な1日を!」と右手を挙げ、爽やかな笑顔をこちらに向けながらビーチへと繰り出して行った。


 「今日も素敵な1日を」こんなクサイ台詞を日本で、日本語で、サラッと吐ける人がいるんやなあ…と、掃除機をウィンウィン前後に動かしながら、何度もこの台詞を脳内で再生した。Have a nice day!とかBonne journée!なんかよりももっと爽やかでハートフルやった。


 しかし「今日"も"」だなんてよく言えたなあ、この場合、目の前にいる人の毎日が実際にどんなものであるかは問題ではなく、「そんなもんどんなものであれ"素敵"に決まってるやん!生きてるだけで素敵やって!」というような確固たる思いがなければあんなふうにサラッとは出てこんよなあ…………これはおとといの出来事だけど、今もまだ不思議とあったかい気持ちが続いている。


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 階段を降りて外に出ると、傘が要らない程度の小雨がパラついていた。ぼーっとしながらレインコートを着ていると、3月まで長期滞在していた男性が黒い傘を差してふらっと目の前を通り過ぎた。常に暗く脆く繊細な雰囲気を纏っていたけれど、とても物腰柔らかく、いつもすれ違うと不器用ながらも笑って会釈をしてくださる人だった。


 ーーー彼(以下Aさん)がここを出て行った日のこと。なんだかいつもと様子が違うAさんを横目で見つつ、私はいつも通りドミトリーの清掃をしていた。「それにしてもこんなに階段を往復するなんておかしいな、なにかあったんかな」と不審に思いベッドを見に行くと、使用済みのシーツと枕カバーが丁寧に畳まれた状態で端のほうに置かれていた。


 周囲に荷物がないことを確認すると、私は階段を駆け降りた。Aさんはタクシーの中にせっせと荷物を運んでいた。

 

「Aさん今日出ていかれるんですか?」

『はい、アパートが見つかったので…色々とお世話になりました。また何かあったらよろしくお願いします』

 

 とても朗らかな表情で、でも何か引っかかるものを残して去って行った。私はこのとき、"ずっとここに居れば良いのに…たぶんあなたはまだ一人になるべきではない"と、なんでか分からんけど思った。でもまあきっと数ヶ月もしたらまた戻ってくるやろ、と信じて不安な心を落ち着かせた。ーーー


 私の目の前を通り過ぎていったのは確かにAさんだった。特に親しい仲でもなんでもなく、ただ「スタッフとお客さん」ってだけの関係だったのに、彼が"生きていた"という事実を知れただけで不思議と穏やかな気持ちになった。一瞬話しかけようか迷ったが、やっぱりなんかお互い気まずいかなと思って少し間を空けて後ろを歩いた。ちらちらとこちらを振り返っていたような気がしたけど、私は敢えて気付いていないフリをした。

 

 県庁前の交差点でAさんは左に曲がり、国際通りの方へとズンズン歩き出した。もう二度と会えないような気がして、話しかけるか否かで再び迷い出して、だけどなんとなく話しかけたらいけない気がして、心の中で「じゃあお元気で…」と告げてそのまま別れた。数秒後にちらっと左を見ると、既にゴールデンウィークの人混みの中に消えてしまっていた。

 

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 翌日、こんな話を聞いた。

 

 『昨日19時頃にXX警察署から電話があって、「Aさんが亡くなりました」って。家族にも連絡つかなかったみたいで、ここに長いこと泊まってたから一応報告として連絡が来たみたい』

 

 私はAさんの最期を見たのか、それとも残像を見たのか。どちらにせよ最後にお別れを言いに来たに違いない。なのに私は話しかけなかった。Aさんだと分かっていたのに話しかけなかった。話しかけていたら何か変わっていただろうか、それともこれでよかったのか。

 

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 これはもうずっと、岐阜に居たときも名古屋に居たときもアフリカに居たときもフランスに居たときも大阪に居たときも、そして沖縄に居る今もずっと考えていることだけど、正しい意見や考え方など存在しない世界で、自分が信じる意見をもつことって本当に難しい。

 

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 誰もが自分と同じように、種類や程度の違いはあるにせよ、何かしらネガティブなものを内に抱え込んだ存在なのだと思うと不思議と励まされる。あの人の優しさって、実は壮絶な過去の所産だったりするのかな、と想像してみるだけで、良く知らない他者をぐっと身近に感じられるようになる。今日もそこらで地獄の沼に溺れる生身の人間が確かにいるはず、正常の鎧を纏って、周りに悟られないように日常を飾り付けて。勝手に想像してそれに共感して、一体それが何になるのか?私が思うに、他者に対する想像や共感は、理不尽な社会をサバイブしていくための一種の精神安定剤であり処世術、役に立つとすればその矢印は己のみに向いている。自分が救われたいだけなのかもしれない。

 

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 「今日も素敵な1日を」、誰もがこの底抜けに美しい言葉をサラリと言えるような人生を送ることができますように。