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  • 帰宅してすぐに力尽きるようにベッドに倒れ込んだ。わずかにズボンだけ部屋着に替えた記憶があるがあとはもう何もできず、ただ天井を見つめていた。思考の渦が部屋中を漂い、時に沈みながら、身体だけがただそこに在った。

  • まとまりのない備忘録をここに記しておく。こうして思索を巡らせたのは久しぶりのことだった。何の予定もない時間が連続して与えられるというのがこれほどまでに久方ぶりだったのかと我に返る。沈黙の中で、とっ散らかった感情たちがゆるやかに、あちこちから浮上してくる。その感覚が妙に懐かしくて嬉しかった。



「自分、そういう行事ごととか苦手で、集団行動がとにかく無理なんすよ」

  • 新しく雇った18歳の男の子がそう言い放つ。「通信だったら、文化祭とか体育祭とかないよね?寂しくない?」ただの雑談のつもりで私が口にした言葉への返答だった。ああ、そういえば私もそうだった。保育園の頃からずっと、私は「ひとり」だった。恋人以外の誰かと手をつないで歩くような感覚を、一度も本当の意味で知ることがなかった。

  • 心にパーソナルスペースを持つということ。どんなに小さな刺激でも、それがほんの少し尖っていれば、それだけで鋭利な矢となって心に突き刺さる。悪意の有無は関係ない。幼い頃から矢を受け続けるうちに心の穴は大きくなり、どんな些細な刺激でも突き刺さるようになる。生きるということは、その無数の矢を避けたり、刺さったまま歩いたり、それでも前を向こうとすること。その矢を抜き取るには、「誰も立ち入ることのできない場所」を、物理的な空間としても、できれば心の中にも確保しておく必要がある。私にとってそれは、文章を書くことだったり、音楽に身を任せて遠くへ飛んでいくことだったり、宛もなく夜の街を彷徨うことだったりする。

  • 気分というものは、単純に良し悪しで分類されるものではない。その狭間に横たわる繊細なグラデーションこそが生きるということそのものだと思う。感情の輪郭がぼやけ、名付けることのできない状態にあるとき、人の想像力は最も自由に最も鋭く働く。考えれば考えるほど堕ちていくのが怖いってか?気晴らしなんかに走るなよ、感情の引出しを増やしていく作業を怠ったらあかん


 

2022年からずっと考えていることがある。

 

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  • 「底寄りの光」、それは深い絶望の中でふと差し込むかすかな光のこと。死にたい消えたいもう終わりにしたいと涙を流した深夜2時、喉の渇きを覚えてコンビニへと歩く。冷たい空気が肌を撫でる。煌々と月が浮かんでいるのを見る。静寂の中に包まれて孤独を実感しつつ、やっぱりほんの少しだけ生きてみようかと思える——あの感覚。底の方に沈んでいる時に差し込むあの微光のもとでしか、私はこの気分のグラデーションの精妙さを言葉にできない。

  • この一年、ブログを書けなかった理由はそれに尽きる。底の方に降りていく気力すらなかった。散歩ひとつできない多忙な日々のなかで、心の揺らぎを表す言葉はすべて行き場をなくしていた。感情を理性で押し殺す作業に慣れてしまった、慣れてしまったというか、そうならざるを得なかった。それがどれだけ苦痛なことか。

  • 心が揺れ動くときこそ他者の繊細な心の動きや日々の中のわずかな変化に強く共鳴できるはずなのに、現実の圧力は私たちを、感情よりも理性を優先させる方向へと押しやる。人の問題、それも深刻な問題に真剣に向き合いすぎて、自分ごと呑み込まれた過去があるほどには感情を優先してきたはずなのに、今の私は、誰かに構う余裕がないほどに、自らを守ることに精一杯だ。目の前で困っている人がいても、自業自得だ、勝手に生きてくれ、とまで思う。

  • 私は自分の人生を通して、「人はそう簡単には変わらない」という言葉を否定したくなる。確かに決意や意思なんかの内的要因ひとつでは人は変わらない。けれど、ひとたび外的要因が根本的に変わってしまえば、まったく別人のように生まれ変わる。まるで、その新しい環境に、私という人間が塗り替えられてしまうかのように。場所や地位、肩書きが、私たちにあるべき姿を要求する。それに応えられなければただ脱落していくことになる。それが怖いからこそ適応せざるを得ない。私は、これまでとはまったく別の人格を生きている。たぶん三十年間でいちばん冷たい。


 

  • こうして言葉にしてみると、ますます冷たさを増していく。感情に溺れることなく言葉に置き換えようとするとき、湧き上がる興奮を冷まし過ぎないよう慎重に、ひとつひとつの感情を冷静に観察しながら、その先に立っている言葉たちをポンポン置いていく作業を繰り返していく。だからこそ冷徹に感じるものがあるし、どこか作られたもののような、リアルではないような感覚さえ覚えることもある。過去にはこのことが原因で文章が書けなくなったこともあった。今でも、文章を書くという行為が時として多方面に嘘をついているように感じてどうしようもなく罪悪感を覚えることがある。

  • それでもなお、感情を言葉に置き換える行為を繰り返している。置き換えた言葉たちの真偽がどうであれ、その中には静かな力が宿っていることだけは確かだと思う。それは私自身の感情の断片を手繰り寄せて丁寧に並べた結果として生まれるものであり、冷徹に見えるその言葉たちの中にどこか温かさを感じ取ることができる瞬間もある。なぜなら、先に書いた通り、「その狭間に横たわる繊細なグラデーションこそが、生きるということそのものである」から。文章とは、私がその瞬間に生きていた証であり、そこに宿る微細な感情や思考こそが、時間を越えて私を再生する唯一の手段だったりするのかもしれん。死にたい死にたいと泣きながら文章ばかり書いてる奴は、多分最も生にこだわっている。世の中には書くために生きる人と生きるために書く人がいて、私は圧倒的に後者だ。

 


 

  • 矢が刺さってどうにもならない夜がある。痛みを言葉にする余白すらなく、ただ息をひそめてやり過ごすしかないような夜。

  • そんな夜のために、ひとりに還れる場所を確保しておくこと。たとえ周囲に人がいても、ちゃんと自分の輪郭を保つことのできる場所。そこには誰の言葉も届かず、誰の期待も宿らない。それでも確かに誰かがそばにいるという気配だけが、静かに存在を支えてくれるはず。言葉を交わす必要はない。自己を証明しなくても、生きていてよいと思えるような空気感。「自分って存在していいんだ」と、ふと気づかせてくれるような場所。深く干渉せずともどこかあたたかく、安心できる空気がそこには漂っている。

  • そんな場所を、自分のためにも他者のためにもつくっていきたい。少なくともそこは、私自身がずっと求めてきた場所でもある。こんなことをもう何年も前から言い続けている気がする。向こう一年くらいは今の場所で頑張る、たまにこうしてひとりに還りながら(今年こそはアフリカに行きたいな)。今回の記事は、NujabesのLuv(sic)pt4のInstrumentals ver.を聴きながら書きました

 


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