あなたは穏やかに過ごすことを孤独やさびしさと同じって言ってから「うんざりするような あきれかえるような やる気のなさで…ゴメンネ」 ー『ミルク』Chara
2015年7月、この歌を初めて聴いたときから、この歌詞がずっと頭の隅に残り続けている。これは、穏やかに過ごすことを否定されたことに対する悲しみというよりかは、"あなた"が「孤独」と「さびしさ」の二つの概念を並列するものとして認識していることへの失望や軽蔑を表していると感じた。私にとって「孤独」と「さびしさ」は全くの別物で、孤独は好きだけどさびしいのは大嫌い。孤独は外の世界につつまれているけれど、さびしさは放り出されてる。
言葉を愛しているがゆえに、言葉を信用しきれないことがある(もう何度も、鬱陶しいレベルで言うけど)。だから、言葉じゃなく沈黙のあいだで伝えることは、説明放棄ではなくて最も誠実な選択だったりする。言葉で伝えきれないならば黙って抱いてくれ。沈黙の中でしか伝えられないこともある。裏を返せば、沈黙で伝わらないならそれはなにも伝えようとしていないに等しい。その時間はすごくさびしい。
さびしさに襲われてどうしようもない時、自分が書いたものを読み返すことがある。
私の書く日記には、まるでフィルムカメラで撮った日々の断片のように湿度も匂いも色もあって、「ひとり」だけど、「世界と断絶していない」孤独がちゃんとある。誰かと接しているわけではない、でも読めばたしかに世界と繋がっていたことがわかる。テレビのワイプの引き攣った表情、アラビアータの辛さ、19:02の夕焼け、ジュンク堂での裏切り(チェーホフ!)、ベンチで爆睡するおじさん、赤信号、うんちを踏む猫……どれも孤独だけど、ぜんぶ世界とやわらかく接続されてる。
「夏が終わる」 ってことは秋が訪れ、その次に冬がやってくるということ。夏の終わりとともに世界との距離がまた少し遠くなるような感覚を、この日記では綴ってる。「寒さ」がもたらす感覚は、物理的な温度というよりも、空気の密度や音の遠さ、肌の表面と外界との間に生まれる「境界」の実感をもたらす。
……というのを、夏が訪れようとしているこの時期に書いているのは、きっと感傷的になりすぎているなあ!今日は大雨が降って寒かったし。
結局、今の自分が昔の自分を慰めることでしか人生が進まないのよね。めっちゃめっちゃ要領の悪い作業だけれども、これがいちばん近道で、これしか正解にならない気がする。他のこと、たとえば恋愛だったり仕事だったりで代替しようとするうちは堂々巡りでどこへもいけない人生なのだと思う。代替品を拠り所にして前へ前へとずんずん進んでいけてると思いきや、時折目の前に立ちはだかるさびしさにはどうやったって負ける。ほんとずっとそうで、結局なにも進んでない。
そして私はこのような散文を書くことを、その内容がどれだけネガティブなものであれどポジティブな行為だと捉えている、という点が、ChatGPT等の生成AIに頼らずに「自分の言葉で書く」ということをやめない理由なのかもしれない。うまい文章をつくって誰かに発表するために書いているんじゃない、これも鬱陶しいくらい何度も言っているけれど、生きる為に書く。そして欲を言えば、心が通う存在と繋がれない、そんな痛みを抱えている人たちのささやかな居場所になれたら、とも願ってる。