終わるし二度と訪れないけど

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↑先日書いたこちらの続編(?)です。

 

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現在は連続しているが、それらは同時に過去となり、ある一定の幅を持った記憶として目の前に現れる。記憶には、それが良いものであれ悪いものであれ、懐かしさを伴う。ここでの懐かしさとは過去への回帰欲望ではない。もう二度と同じ状況を経験することはないという『時間の不可逆性』から来る、美しさと切なさとが同時に立ち上がる緊張のこと。ゆえに懐かしさとは悲哀に満ちていて、しかし悲哀とは決して消極的な感情ではなく、(逆説的ではあるが)悲哀によって癒える傷がある。前に進む原動力にもなりうる。


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2003年3月。小学2年生の最後の登校日を終え、家に帰る。おしっこ漏れるゥ〜と叫びながらトイレに入った。シーンとした個室の中で、用を足しながら、ふと壁に掛かっているカレンダーに目を遣る。3月26日……今日で2年生は終わりか。もう二度と、2年1組のメンバーがあの教室で集まることはないんか。…え?えええ、どゆこと?【ずっと続くであろうと信じて疑わなかった時間、空間、人】が、ただの偶然の組み合わせに過ぎなかったということ?だからこうやって、いとも簡単に解体されるんだよね?構造ってこんなふうに急に崩れるものなの?ハーッ怖い!もう二度と戻れない過去があるなんて知らなかった、いつでも再現できると思ってた、先に言ってよ、怖いじゃんか…私たちは死に向かってるだけの存在なんだ…(←本気でこう悟って、トイレの中でプチパニックに…)


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懐かしさとはなにか?

私がこの記事を書こうと思ったきっかけは、今日の夜、仕事終わりに「やっぱりステーキ」で肉をガツガツ食らっていたら(9の付く日はステーキ50g増量なのでね)、店内BGMで懐かしい曲が流れてきたことに始まる。音楽は記憶を呼び起こすのに最適なツールだ。たまたま流れてきたその曲によって、私の意識は目の前の肉ではなく、過去の記憶へと向いてしまった。


簡単に言えば、それが物凄く「苦しかった」のだけど、もっと踏み込んで言えば、ただ「苦しい」のではなく、どこかに暖かさもあって、希望もあって、でもなんかやっぱり苦しい、すぐそこに終わりが迫ってる感覚、みたいな。苦しいは苦しいのだ、それはそれとして事実である。でもそれは単に、時間がもつ不可逆性という性質を直視しているからに過ぎない。もう二度と戻れないというのは本当に恐ろしいことなので。しかしその事実から目を逸らさずに向き合ってみると、過去というのはなんと素敵なものなのでしょう?それはそのまま自分が生きた証でもある。あの日あの時あの場所で誰かと過ごした時間が今の自分をつくっている、と実感できるのは、過去の存在があるからだ。そしてそれは悲哀に満ちた懐かしさと共に浮かんでくる。


私の書く文章はすべて、この「懐かしさ」を由来にしている。遠い過去の記憶をたどっては、「ああ生きてて良かったなあ、本当にすべてが愛おしいなあ、まだまだ生きたいなあ」としみじみ思いながら、Nujabesをお供に夜遅くまで書いている。


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永遠を望んではいない。何年か前にも書いた気がするが、私はいつも「いつか必ず死ねるから、人生はそれまでの暇つぶし」と思いながら人生を楽しんでる。切れ目のない現在を生き続け、酸いも甘いも噛み分けて、ただ死を迎えて時間の意識も途絶える。時間は戻らない。同じ状況は再現されない。しかしそこに虚無を見出すのではつまらんだろ、最後にはすべて消えてなくなるんだぜ?おいお前はいま、何をやっている