vol.1『さすらいもしないで このまま死なねえぞ』

はじめに


 「一人でアフリカに行って、一体何をしていたの」と聞かれましても、特に何もしていなかったので返答に困る。たいてい「なんもしてないよ」とだけ答えて、ヌメーッと会話を終わらせる。

 世界中どこに行っても、私がすることといえば《散歩・雑談・飯・睡眠》ぐらいだった。「次の国ではちょっと観光してみようかな」なんて思ってみても、国境を跨げば再び《散歩・雑談・飯・睡眠》のルーティンを、来る日も来る日も、何も変わらぬ調子で・・・

 このことを「私の内向的な性格がそうさせた」と説明することもできるけど、それだとなんだか後ろ向きな解釈になってしまう気がしてちょっと嫌だ。何となく良いように説明するならば、「何気ない日常こそ至高なんだぞ!」ということを心のどこかで感じていたからなのかもしれない。旅中、朝起きてから夜眠るまでの連続した時間の中で、一瞬たりとも退屈な時間を過ごした覚えはない。見るものすべてが新鮮で、常に何かに魅了されていた。彼らのコミュニティにお邪魔して、人間らしい生活をさせてもらうだけで、本当にもうお腹がいっぱいだった。

 順風満帆の人生を歩んでいる者にとっては、なんだか退屈でまどろっこしい旅行記かもしれないけれど、人生がどうも思うようにいかなくてうんざりしている人にとっては幾分か救われる旅行記かもしれません。フィクションか、それともノンフィクションか?そこはご想像にお任せします。このブログのどこかに答えはありますが・・・

 



プロローグ


 生まれた瞬間から孤独だった。目に映るものすべてが切なくて、すべての風景に悲しみが溶け込んでいて、すべての人々から寂しさを感じ取った。街中ですれ違った名も知らぬ誰かが妙に複雑な表情を浮かべていたりすると、なぜだか勝手に悲しくなってきて、しばらくその表情が脳裏に焼き付いて離れず、勝手に苦しむ。たった一瞬の、それも素性の全く知れない人間の表情ひとつがきっかけで、瞬く間に生活が崩れ落ちていく。授業中はほとんど上の空で<あの日あの場所で見た何か・誰か>のことをぼんやりと考えていた。定期考査の結果は押しなべて赤点だった。

 高校3年生になり周りが受験一色に染まりつつある中、私はと言えば、進路のことなど気にも留めず、ただ何となく「しばらく地に足つかない生活を送ることになるんだろうな」といった漠然とした将来像を抱えながら、しかしだからといって特別焦ることもなく無為の日々を見送っていた。「先のことをあれこれ考えても仕方がない」といった風来坊的な考えは、暇さえあれば散歩をして街や人の様子を観察し、それらが連続的に変わっていく様子、あるいは外部からの予期しない介入をキッカケとして爆発的に変わっていく様子を横目で見ているうちに自然と染み付いたものだ。

 学校が終われば、進路の決まらない宙ぶらりん状態の仲間と最終下校時刻までダラダラと、全く生産的ではないがとても心地良い時間を過ごし、校門を出れば今度はひとりで、山に沈みゆく太陽を眺めながら大好きな音楽をお供にあてもなく街を徘徊する。ペットショップに寄り、長い間売れ残っている猫と窓越しに会話をし(アイコンタクトを取っていただけです、本当です)、近くのゲオでタイトルを「あ」から順に眺め、気になった映画を何本か借りる。日が沈み切ってから家に帰り、母の用意した夕飯があればそれを食べ、なければパスタやらうどんやらを適当に作って黙々と食べる。借りてきた映画を観ているうちにソファで寝落ちする。夜中にハッと目が覚める。寝ぼけ眼でお風呂に入る。そうして寝不足のまま学校に行くから、授業は聞かず(聞けず)に爆睡するか、別の世界にぶっ飛ぶか、知らない国の旅行記を読み漁る。

 恐ろしいことに(いや幸いにも)、先に少し述べた通り、このような堕落し切った生活の中でも焦りや不安などといったマイナスな感情に押し潰されることは全くなく、むしろ常に晴れやかな気持ちでいられた。恐らく、人間に通常備わっているはずの感情センサーがひとつかふたつ抜け落ちている。林芙美子よろしく、「宿命的に放浪者」である。

 代わり映えしない生活、地続きの日々・・・このまま死ぬまでここに根を張り、なんとなく働いて、なんとなく散歩して、それで満足していたら、そのうちに気が狂って、文字通り「死んでしまう」と思った。特にやりたいことはなかったが、閉鎖的な空気の漂う地元に居続けるという選択肢は端から頭になかった。体は動いても心が腐る。それで、物理的にも心理的にも一番遠い大陸に一旦逃げてしまおうと思った。

 最終的に、アフリカには計4回足を運び、17ヶ国を訪れた。そこには痛みがあり、寂しさがあり、儚さがあり、温かさがあった。経験したことのない感情のうねりがあった。訪れたすべての場所の光景が、匂いや温度を伴った映像として記憶に残り続けている。

 



さよならまたね


 周りが受験受験受験でピリついている中、呑気にカンボジアへと逃げ込んでいた私は、当然のように進学先も就職先も決まらぬまま、いや決めようともしないまま高校を卒業した。「とにかく遠い場所へ、ポーンと逃げてしまいたい」ただそれだけだった。なけなしのバイト代を握り締めて国外逃亡を繰り返す。初めての国境越え、異国で過ごすクリスマス、刺激的な夜の世界・・・現実からの束の間の乖離。窓のない湿った部屋でベッドに腰掛け、ぬるくなったミネラルウォーターを飲みながらぼうっと天井を眺めていると、どうしようもなく不安な気持ちに押し潰されそうになるのだが、その究極に孤独な時間がなぜか心地良かった。

 気付けば放浪中毒になっていた。もっと遠い場所へ、誰も知らない場所へ、・・・アフリカ・・・



 2014年6月某日、心を無にして貯めた60万円を握り締め、再び65リットルのバックパックに手をかけていた。リビングにはいつも通り明るく振る舞う祖母の姿があった。語学を習得したいだの海外で働きたいだのといった前向きな理由ではなく、ただただ現実逃避をしたいという後ろ向きな理由で遠い国へと旅立とうとするたった一人の孫を笑顔で見送ろうとする祖母の心境を思うといたたまれなかった。背負いかけたバックパックを床に置くと、「ちょっとトイレ行ってくるわ」と乱暴に言い放ち、洗面所の鏡の前で声を漏らさぬよう泣いた。

 この日のために何種類ものワクチンを打ち、幻覚や悪夢を見ることで有名なマラリアの治療薬を購入し、寝袋やテントなどといった長旅における必需品を一通り揃えた。髪の毛を肩下辺りまでバッサリと切り、「もう何も思い残すことはないなあ」とどこか清々しい気持ちでいた。それなのに、いざ旅立ちの日を迎えると後ろばかりを振り返ってしまう。一人でどこにでも行けるしなんだって出来ると思い込んでいたのに、やはりアフリカ大陸はこれまで訪れた国とは少し訳が違った。頭のてっぺんからつま先まで、身体全体が緊張している。ここで誰か一人でも引き留めてくれたならどれだけ救われたことか。しかし幸いにも誰一人として私の手を引く者はいなかった。

 泣き腫らした目を隠すように、少々俯きながら玄関へ向かうと、またしてもいつもと変わらない祖母の姿があった。いつでも帰っておいでね、とかそんなことを言われたような気がするがよく覚えていない。15kgの荷物が詰まったバックパックを片手で軽々と背負ってみせて、玄関の扉を開けた。ギィィーッという聞き慣れた音。ここで振り返れば全てが崩れるような気がして、母の待つ車へと急いだ。最寄り駅までの数分間、車内に充満する気まずい空気を解消するために、奥田民生の『さすらい』を流した。「まわりは〜さすら〜わ〜ぬ〜人ば〜っか〜 少〜し〜気にな〜った〜」と奥田民生が言ったところで、母は「それが普通っしょ」と鼻で笑った。

 駅に着いた時には既に電車は到着していた。下手したら一生の別れになるかもしれないというのに、何も言えぬまま急いで切符を買い、目に涙を浮かべて、しかし決して溢すことなく電車に乗り込んだ。

 平日の真っ昼間、車内は人もまばらで、とりあえず端の席に腰掛ける。次はいつ帰ってくるんだろうか、帰ってこれるんだろうか?この期に及んでも尚、家族に対して素直になれなかった自分を恨んで罪悪感で一杯になったが、見慣れた田舎の風景が段々と遠ざかっていくにつれて不思議と心は穏やかになっていった。崩れたスーツを着たサラリーマンを観察しているうちに、「高校卒業して、そのまま進学とか就職とかしてたら、あんたは今頃鬱になってたかもね」という母の言葉をようやく理解した。

 さすらいもしないで このまま死なねえぞ!

 


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