vol.0 『じゃあこれからどうするか?』

 

今しがた私は、ダカール中心部にある安いホテルの、手術室のように薄暗く、カビ臭く、天井の染みの向こう側に何かが潜んでいそうな、幽霊が棲みついていても全く驚かない気味の悪い部屋の中で、年甲斐もなく、声を押し殺すこともできず、わんわんと泣いていた。

f:id:africakari:20251213065617j:image

原因はとても単純で、車を避けようとして少し傾斜のあるコンクリートの上を歩いたら足がつるんと横に滑り、体が思った以上に勢いよく横倒しになり、よりによって馬の糞溜まりのど真ん中に派手にダイブしてしまったからだ。馬の糞である。

馬の糞。

転ぶだけでも十分に最悪なのに、馬の糞の上に転んでしまった(しかもかなり新鮮な馬の糞だった) 。


パーカーの袖には馬の糞が大量に付着し、それを見た中高生くらいの男子たちが「わー見ろよ!!!中国人がフンだらけっ!!!」と腹を抱えて笑った(補足しておくと、セネガルではアジア人はだいたい"Chinois!(中国人!)"と呼ばれる)(稀に悪意がある場合もあるが、単に分類が雑なだけであることが多い)。馬の糞まみれの状態で指をさされて笑われるという状況は、想像以上に心を削る。馬の糞が付いているのはパーカーだけなのに、なぜか自分という存在全体が汚れてしまったような気がした。

f:id:africakari:20251213044522j:image


今日は起きてから、ほとんど一日中ベッドの上にいた。この薄気味悪い部屋のせいもあると思う。昨日の昼過ぎにこのホテルにチェックインしてからというもの、精神状態がすこぶる悪く、意識が内へ内へと沈み込み、考えなくていいこと、考えても仕方のないことばかりが頭の中を占拠していた。誰とも繋がっていない感覚、完全に孤立している感覚がじわじわと強くなっていき、このままでは本当にまずいと思って外に出たのだけど、ものの数分後に馬の糞だらけになって帰ってくることになるとは(人生というのは本当に容赦がない)。


ホテルの若い女性スタッフが私を見て、「え?どしたの?大丈夫?」と声をかけてくれた。私は反射的にフフフーとふにゃふにゃ笑い、「すぐそこで転けちゃった!馬の糞目掛けて💩最悪〜!」と明るく答えた。全然気にしてませんよ、こういうこともありますよね、という雰囲気を全力で演出したつもりだったけれど、彼女はそんな私を一瞬で見抜いた。「全然大丈夫じゃないよね。有料のランドリーサービスもあるけど、今日はもう終わってるから明日になる。でもあなた、明日チェックアウトだよね……?」一瞬考えてから、彼女は続けた。「よし、私が今から洗ってあげる、それ貸して。代わりの服は持ってる?」


その瞬間、私の涙はまぶたの裏に大集合した。目の奥がじんわりと熱を帯びる。


なんとか堪えつつ、ふにゃふにゃの作り笑いで感謝の言葉を述べると、彼女は「どぅりぁんっ🎶(De rien🎶←フランス語で、どういたしまして)」と、明るい声にカラッとした笑顔を添えてパーカーを受け取った。

 

部屋に戻る。扉を閉め、内鍵をかけた瞬間、抑えていたものが一気に決壊し、私はベッドの上でわんわんと泣いた。転けたこと、馬の糞が付いたこと、笑われたこと、スタッフの優しさ、そして、それ以前からずっと溜まっていたなにか、その全部が一緒くたになって流れ出てきた感じだった。


私の人生って、いったい何なんだろう?何のために生まれて、何のために生きているのか、もっと違う、もっとマシな生き方があったんじゃないか、という問いが頭の中をぐるぐる回り、強烈な自己喪失感に襲われた。アフリカに来てまで、馬の糞にまみれて泣いている私は、いったい何をしているんだろう、という感覚も僅かながらにあった(本当にしょーもない)。


「どうしてこんな生き方をしてしまったのか」という後悔ほど無意味なものはない、ということも、同時に分かってはいる。"今"というのは常にその時その瞬間に選び得た最適解の積み重ねでしかないのだ。たとえば試験前に、「Aをやりましょう、Aさえやれば合格できます」と言われたとして、Aを実行できる人もいれば、できない人もいる。できない人の中には、単に能力の問題もあれば、周囲の環境や精神状態、身体のコンディションに左右されて、やろうと思ってもできなかった人もいる。そういった人が後から「あの時どうしてAをやらなかったんだろう」と後悔したとて、それははっきり言って無駄なこと。その時のその人は、Aをやる能力がなかった、あるいは、Aをやることよりもまず、自分が壊れないこと、自分を保つことを優先せざるを得なかったのだから(Aをやれなかったすべての者へ:それは決して怠慢ではない、どうか自分を蔑まないで)。


そうだね、そのことを裏付ける証拠として、ここで11年前のアフリカ旅行記から引用しましょう。

↓↓↓

平日の真っ昼間、車内は人もまばらで、とりあえず端の席に腰掛ける。次はいつ帰ってくるんだろうか、帰ってこれるんだろうか?この期に及んでも尚、家族に対して素直になれなかった自分を恨んで罪悪感で一杯になったが、見慣れた田舎の風景が段々と遠ざかっていくにつれて不思議と心は穏やかになっていった。崩れたスーツを着たサラリーマンを観察しているうちに、「高校卒業して、そのまま進学とか就職とかしてたら、あんたは今頃鬱になってたかもね」という母の言葉をようやく理解した。

↑↑↑


つまり、過去の決断のすべては、何万通りもある選択肢のなかから、それを選択せざるを得なかった、ただそれだけの話である。傾斜のあるコンクリートの上を歩かなければ馬の糞の上に転ばずに済んだかもしれない、という世界線は頭の中には確かに存在するけれど、現実に存在するのは馬の糞の上に転んだという事実だけである。そしてそれは最良の選択だった(そもそも、車を避けようとして転んだのだから、最悪の場合、車に轢かれていたかもしれない)。

 

これは人生のあらゆる決断について言えることで、「どうしてあの時やれなかったんだ」「なんであんなことをしてしまったんだ」「ああ言えばよかった、こうすればよかった」………etc. そういった後悔はすべて後悔するに値しない。「そうせざるを得なかったし、それがその時の自分にとっての最適解だった」と諦め、受け入れるしかない。実現できたかもしれない可能性は、実際にできていない以上、もうこの世には存在しないのだ。残る問いはいつも同じで、「じゃあこれからどうするか?」


というテーマの、セネガル旅行記2025、でございます🫏💩。お楽しみに(?)🎶

 

f:id:africakari:20251213064652j:image

"It requires courage! and we are fearless! the future is co-created!" ダカールの閑静な住宅街にある、とあるカフェに篭ってこのブログを書いた。そのとあるカフェの黒板です。なんとなく撮った。